ブータン

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震災から半年以上が過ぎた。都内に住んでいると、震災でおきたことが全て解決されたかのように普通の生活に戻っていく。なんだか、そんな風に生活することはそれはそれでいいんだろうけど、何かにかかられyoutubeで津波の映像を見てみるときがある。それは震災を忘れないようにしているのか、自分を何かにかからせているのか分からないけど。

そんな中、僕が2年前に1週間ほど、旅をした幸せの国ブータン(旅のときの写真)の国王が来日されているニュースを拝見しました。国会でのスピーチがあげられているので、全文を掲載しておこうと思います。国内にいるとなかなか日本の良さに気づきませんが、このようなスピーチがあると、自分たちの日本や日本人であることにもっと誇りを持って生きていかなければという思いにさせられます。

天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。このことに対し、感謝いたします。

妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。

ご列席の皆様、演説を進める前に先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的に分かちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。

私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。

皆様が生活を再建し復興に向け歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。

このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。

皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。

ご列席の皆様。私はすべてのブータン人に代わり、心からいまお話をしています。私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。その私が申しあげたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうということです。卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がそのなかで主導的な役割を果たさなければならないと確認しております。日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。

ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々のあいだに深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。

今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手のなかに委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。ブータン国民の寛大さ、両国民のあいだを結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々の、ブータン国民のゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝えることができて大変嬉しく思います。私はここに、両国民のあいだの絆をより強め深めるために不断の努力を行うことを誓います。

改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。ご列席の皆様。簡単ではありますが、(英語ではなく)ゾンカ語、国の言葉でお話したいと思います。

ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれど、日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験しそしてこれからも繁栄を享受されますようにという祈りです。ありがとうございました。

引用:ニコニコニュース「『国民総”幸福”量』を重んじるブータン国王が国会で演説」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw147415

世界報道写真展2011

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恵比寿の写真美術館で開かれた世界報道写真展2011に行ってきた。昨年1年間(2010年)を通して、世界で起こった報道写真を通じて振り返ることができる。例えば、死者30万人を超えたハイチの震災、チベットを襲い2000人以上の死者をだした青海省震災、パキスタンで2000万人の被災者を出した大洪水、バンコクの赤服デモなど、「あー、確かにこんなニュースもあったあった」と記憶から消えかけていた出来事が写真から蘇ってくる。メディアで見ない様な残酷な写真がかなり多く、「ニュースは知っていたんだけど、こんなにひどい状況だったんだ」と無知な自分が情けなくなる。何分、報道規制がかかっているため、死者2000人ですと言われても実際に死体をメディアを通じて目に触れる事もないし、イメージも膨らまない。ただ、実際、これらの写真は全て海外のメディアで報道されているものであることを考えると、国内における報道規制は一体どのような意味があるのかな。確かに、気分を害する方が出る事やクレームーが起きることも考えらるが、もう少し適切な正しい報道というのがあっても良い気がする(死体を見せろという意味ではない)

今年の写真展の大賞は、Time誌に掲載された鼻と耳をそぎ落とされた、アフガニスタン人の女性のポートレート。「夫の暴力に耐えかねて嫁ぎ先から実家に逃げ戻ったビビ・アイシャ(18)は、逃亡の罪でタリバーンの指揮官に刑を宣告され、夫によって耳と鼻を削ぎ落とさ れた。その後、保護されたビビはカブールの女性保護施設に一時匿われた後、アメリカに渡ってカウンセリングと再生手術を受けた」とのこと。夫の暴力にも関わらず、逃げたことで女性が処罰を受けるとは何とも残酷な話。

世界を見れば、まだまだ悲惨とも思える国民がまだまだいるのも現実であれば、東京で何事も不自由なく生きている日本人も現実だったりする。本当に恵まれた人生を歩んでいるんだなと思うと、欲望の塊みたいな人たちが薄く小さな人間に見えてきて、十分に幸せであることを伝えてあげたくなるし、現状がどれくらい豊かであることを気付かせてあげたくなる。「大丈夫。飢えないし、死なないから」と。十分に恵まれた世界の中で、何を求めて生きていくべきなのかを考えさせられる写真展です。

東京での展示は終わってしまったのですが、大阪、京都、大分、滋賀と展示は続いていくようです。書籍はもちろん、iPhone app450円)でも写真を閲覧することができるようです。

iPhone app
http://bit.ly/o0Lnxf

・書籍「World Press Photo 11
http://t.co/Pgi2xGO

・世界報道写真展
http://www.asahi.com/event/wpph/

家庭愛

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怒濤の結婚式ラッシュ。6-7月あわせて4件の披露宴に参加してきました。そんな結婚式では、両親だけではなく、兄弟ひとりひとりに熱い想いを語る友達もいて、披露宴をみることで友人の親そして家族への愛情や温かさを垣間みることができ、あーこんな温かい家族で育ったから今の友人がいるんだなと、改めて再認識させられます。

先週、参加した友達の結婚式は特に家族愛に溢れていて、こんな仲良し家族が今時存在するのかというほどの温かさ。最後の両親の手紙では、私の今があるのは愛情の注ぎ方、感性の育み方など、両親の温かい育て方があったからだという感謝の意味を込めて、以下の「子ども」という詩を朗読していました。「子は親の鏡」とも言われているそうで、50年以上も前からあるそうです。

将来、こんな温かい詩を娘から朗読されたら父の私は、確実に号泣です。。

Children Learn What They Live, by Dorothy Law Nolte

( 子ども ドロシー・ロー・ノルト)

批判ばかりされた子どもは非難することをおぼえる

殴られて大きくなった子どもは力にたよることをおぼえる

笑いものにされた子どもはものを言わずにいることをおぼえる

皮肉にさらされた子どもは鈍い良心のもちぬしとなる

しかし、激励をうけた子どもは自信をおぼえる

寛容にであった子どもは忍耐をおぼえる

賞賛をうけた子どもは評価することをおぼえる

フェアプレーを経験した子どもは公正をおぼえる

友情を知る子どもは親切をおぼえる

安心を経験した子どもは信頼をおぼえる

可愛がられ抱きしめられた子どもは世界中の愛情を感じ取ることをおぼえる

『子どもが育つ魔法の言葉』より

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海が見える式場 scape

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相変わらず、披露宴って料理が美味しい

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はじめてみたけどwedding tree(参加者が拇印押してメッセージ書くみたい)

小値賀島

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大分、軍艦島のあとはメインとなる小値賀島へ。長崎港から上五島を経由し小値賀島へ向かう。小値賀島は正式には五島列島の北にあるため五島列島には属していないようだ。海底噴火によりできた小値賀は、中心部に山がなくかなり平坦。アップダウンも少ないため、レンタサイクルでも23時間かければ島内を1周できてしまう。島が平坦であるため、島では珍しく田んぼが広がっている。お米が多くとれたこの島では、かつては酒屋があり島としても潤っていたそうで昭和30年ごろまでは五島列島の中心地となっていたそうだ。そのため、隠れキリシタンの逃げ場とはならなかったため、小値賀には教会もない。

小値賀も1万人を超える人口も3000人をきり、そのうちの50%60歳。65歳でも若い人に入る、典型的な高齢者が多い島となっている。

ただ、小値賀は今、島の資産を活用して民泊・体験プログラム・古民家など島の良さを残したまま観光化を図っている。最近、個人的に、島を盛り上げるための活動としてアートやライブイベントで観光客を呼ぶよりも、島民をコンテンツとして提供していく仕組みに関心が高い。これは島に限らないが、現地にいる人に会い、触れ合うことで、普段の観光にはない愛着がわき、その土地が好きになりまた来たいと思う。「あーあのお寺やアートをまたみたい」と思わなくても、「あーあの人にまた会いたい。話をしたいい」と思うことの方が多いのではないかと思ったりする。さらに、人と触れることで、人だけではなくその土地の食生活や文化など島を取り巻く環境をも感じることができる気がしていています。

地域や島に移住は難しくても、たまに思い出し遊びに行くようなゆるい繋がりを維持しつづけることも重要であり、またしばらくたった小値賀にいこうと思いました。

小値賀島滞在中は、近くの無人島の野崎島にものんびり遊びにいけたり満喫できました。

おぢか島旅:http://ojikajima.jp/

野崎島:http://nozakijima.jp/

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島には思えない広がる田んぼ

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牛も急に飛び出してくるのかな

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古民家を改装したレストラン「藤松

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ランチだと1000円ぐらいで美味しくいただける。写真はカレー(笑)

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島民いわく、沖縄級に海が綺麗とか

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急遽だったので民泊できなかったので民泊に近い民宿「ちとせ」へ。温かい民宿でした

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小値賀から1時間のところにある無人島:野崎島

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野崎島の教会は美しすぎました

軍艦島

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長崎から船を走らせること1時間。みえてきた端島。通称、軍艦島。島に見られるような潤った自然は見えず、灰色にくすんだコンクリートの廃墟だけが見えてくる。その風貌が戦艦「土佐」と似ていたことから軍艦島とよばれはじめたそうだ。30年以上も前に無人島と化し、周囲1.2kmの小さな島に今は、廃墟だけが残されている。廃墟は美しさも虚無感も感じる世界をつくりだしている。

高度経済成長時代、黒いダイアモンドを掘り続けていた炭坑夫は憧れの職業だったのかもしれない。一般庶民よりも高給取りで、朝から晩まで地下でひたすら石炭を掘り続ける毎日。島内は、衣食住に関する生活必需品はもちろん、学校、床屋、映画館、バー、パチンコ屋などすべてがそろっていたようだ。給料日には長崎から商人が足を運ぶほど当日、島としては潤っていたようだ。人口密度は東京の9倍で、5000人ほどが当日としては珍しい鉄筋コンクリート内の六畳一間に住んでいたという。

がむしゃらに死ぬ気で働いた時代。そんな働いた跡を廃墟から感じました。

普通の観光船では見れるところはかなり限定されていますが、頑張れば以下のリンクにあるように内部まで行けるようです。

(参考)廃墟デフレスパイラル:http://home.f01.itscom.net/spiral/research3.html

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走ること1時間ほどで見えてくる軍艦島

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目の前の建物は日本初の小中一貫校(校長も掛け持ちしていたとか)

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事務所となり、ここから地下に下りていくらしい

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確かに軍艦に見えるといわれれば分からなくない

それにしても、本当に天気が良くて、暑かった。。

大分

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大分では、高校時代の友人や大学時代の友人に久々にあったり、別府&湯布院に入ったり、高崎山でサルの群れ見たり、美味しいものを食べたりしてた。何かしたわけではないんだけど、僕にとっては仲の良い友達と会って話して、美味しいものを食べて、笑う。そんな小さいことが日々の日常の中で、こんなに大切なことなんだということを思い出させてもらえた気がします。これこそが本当の旅っていうものなんだろうな。

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↑湯布院のは金鱗湖

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↑別府でお世話になった別府ゲストハウス。確か1泊1500円

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↑明礬温泉のこの温泉の泥湯は一度体験するべし

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いかしょうのイカの活造り

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↑大分にも海が一望できる、こんな雰囲気あるお店があるのだ echelle du ange

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【動画】高崎山。日本一の数と言われたニホンサルの群れをご覧あれ。

三宅島へ

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今回の震災における被災者への少しでもインプットになるような手がかりがないかという意識のもと、三宅島の島民へ復興の聞き取りインタビューをしたいという友人の企画に共感し、弾丸1泊3日で三宅島に足を運んだ。地震・津波と噴火は異なる災害だが、自然災害という意味ではかなり近い。自然の中で生きている以上、自然を受け入れて生きて行くかなければいけない。そんな共通項が何かあるのではないかという問題意識を持っていた友達。実際に、島民と交流を図ると、噴火という自然災害を受けた自分たちでしか出来ないことがあるのでと考えていた。

1泊3日の島内をガイドをしてくれたのは同じ年代でUターンをした三宅島住人、
インタビューは、島内で旅館を切り盛りする70歳のおばあちゃん。元三宅島で美術教員を辞め、今は半画家半漁師で切盛りする素敵なおじ様の2名。1時間以上時間をつくって頂いた。夜は夜で、島民10人ぐらいとBBQさせてもらい、多くの島民から三宅島のことについて学ばせてもらった。

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やまのべ旅館:田中さん

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ギャラリーカフェ カノン:半画半漁師の穴原さん

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島民の方々とのBBQ

そんな3日間で、印象に残っているものを断片的ですが時系列に少しだけまとめてみました。

三宅島の基本情報

・ 20年に1回、三宅島の中心にある雄山は噴火している(直近では1940,1962,1983,2000年の4回)
・ 1983年は溶岩が流れて埋没した小学校は30年以上たつが復興させることなく観光スポットとして残している。島民の噴火への意識が高く死者は0だったそうだ
・ 2000年は海底噴火のため溶岩は流れず噴煙が凄く主に二酸化硫黄が強く全島避難を余儀なくされた
・ 2005年2月全島避難が解除された
・ 山周辺は現在も立ち入り禁止
・ 偏西風の影響から現在も島の東側の地域は居住できず(実際に硫黄の臭いがきつく生活できない事を思い知る)
・ 島内には火山ガスを感知するランプがいたるところに設置されている

全島避難状況

・ 子供たちは大人たちよりいち早く、廃校予定であった全寮制のあきる野市秋川高校に小学校〜高校生が避難することになった
・ 大人たちは3日間以内に避難する様に都から命じられた。電気も止まるとのことにより冷蔵庫/冷凍庫の中身などが大量に破棄された
・ 実際に東京に住んだことがない島民(特にお年寄り)は島の中に隠れている人も何名かいた
・ 最初はオリンピックセンターに宿泊するも、3−4日のうちに都営住宅にうつる事になった。しかし、誰がどこに住んでいるのか把握することが島民間では出来なかった。島民名簿をつくるのに約1年時間を要した
・ 住まいはかなり差があるものの、電化製品や布団など生活する最低限のものは整っていた。オートロックに住んだお年寄りは、鍵の開け閉めにも一苦労だったとか(島民は鍵かけない傾向あり)
・ 子供たちはあきる野市の学校にいるため、親子別々に最初は暮らすことが必要となりしばらくは高校生が小学生の面倒を見ていた。しばらく戻る事ができないことが分かると、全寮制を出て親と暮らすか、友達と全寮制に残るかという親か友達を選ぶということを余儀なくされたという
・ どれくらいで戻れるかという情報は一切亡く、島民たちは数週間ぐらいで戻る事が出来るだろうという旅行感覚だった。(結局5年近く戻れず)

島民の東京生活

・ 「東京は物価が安い」そんな発言が印象的でした。(島に行った事ある人は分かると思いますが、日用品は運送費がかかるため物価が高くなってます)
・ 島民生活が長いお年寄りのために100円ショップツアーやヨーカドーツアーなるものが開催されていた
・ 島内では車移動が当たり前だったため電車での移動が大変だった
・ 都が「仕事を探す」のではなく「仕事をつくってくれた」。農業経験者ように農場を提供してもらった人もいるらしい。
・ しばらくたつと抽選で帰れる人が出て来た。しかし日帰りの短期間のみだったらしい(インタビューした方は2回程もどったとか)

復興までの道のり

・ 基本的には全島避難だったが、常に警察や土木工事関係者など何名か滞在していた
・ 最初のうちは、宿泊許可がないため日帰りで神津島や船上泊をする必要があった(船上の料理が豪華すぎたという話も)
・ 具体的な土木工事関係者の仕事として、最初は火山灰の除去にはじまり、ライフラインの復旧や防砂ダムの設置など
・ 島民だけではなく、東北農家の出稼ぎも多く東北の方言が飛び交っていた(お話を伺った工事関係に携わっていた島民の方はより震災への意識が強いという話をされていた)
・ 3年ぐらい立つと、宿泊もできるようになり、それに伴い、最低限の商店や旅館がオープンする必要があった(全島避難解除前)
・ 旅館に戻ってきた女将さんは、庭が草ぼうぼうの状況や室内もイタチやら動物に荒らされていてしばらくは旅館として機能が難しかったという。
・ 脱硫装置(空気清浄機みたいなもの)を部屋に設置することが義務づけられていた

全島避難解除後

・ しばらくは自分のことに精一杯で島民間での交流が図られる事はなかった。今では全島避難があり島民全体の一体感が少しは芽生えたのではないかという印象は聞いた方共通していた。
・ 東京の生活に慣れた人(特に嫁いだ人)は戻って来ていない人も多く、男女比のバランスが崩れているという。子供と働くお父さんだけで生活しているというケースの家があるらしい。
・ それでも、今は2000人ぐらいの人が戻り生活している

2000年に噴火が起こり全島避難を余儀なくされた三宅島。2005年に避難解除されたものの、その後の現地の様子はあまり取り上げられる事は少ない。報道やマスコミは実に断片的で切り取られて情報が流れていく。そして、起きた事すら忘れていく。阪神大震災がどれくらいの期間で復興して今どういう状況であるか多くの人が知らない様に、今回の震災も、数年経つと被災した街がどうなっているのか、報道されなくなり、皆の生活から切り離されて行く。当事者ではない限り、勿論しかたない事なのかもしれないけど。

少し前、ビートたけしが、今回の震災を受けて、雑誌の中で「2万人が死んだ一つの事件」ではなく「1人が死んだ事件が2万件あった」と考えるべきだと書いてあることを思い出した。数字による大きさでしか震災が語られないが、そこには1人1人の震災に対する物語があるということなんだと思う。

今回、話を聞かせてもらった方々も同じ噴火という事件に対しても異なる物語があった。報道で束ねられた情報ではなく、一つ一つの物語を見て肌で感じる大切さを改めて感じた今回の旅でした。

最後に、三宅島の噴火を舞台にした映画が7月より上映されるらしいです。これも一つの物語だと思います。

映画「ロック~わんこのしま~」:http://www.rock-wanko.com/

アルバム:http://flic.kr/s/aHsjuTBqAQ

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1983(昭和58年)に溶岩に埋まった阿古小学校跡

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小学校の体育館

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良い写真だ!(どこだったかな。。。)

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長太郎池で遊ぶ旅行研究会出身者(笑)

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太路池(僕が一番好きな場所)

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2000年の噴火による泥流で埋まった椎取神社

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噴煙により枯れた木々

大瀬崎@西伊豆

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今年、初ダイビング。久々に足を運んだものの水温が低いと共に僕以外の二人が体育会系だったので疲れた。

帰りはいつもどおりの弥次喜多に加えて、箱根の天山にも足を運んだ。朝5時30分に起きるとこんなに出来るのかと満足なかなか充実した1日だった。

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大瀬崎

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地図

後輩が撮影してくれたがこれ大瀬崎の魅力度が何倍にも高く見える

陸前高田市へ

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GWは岩手県陸前高田市に足を運んだ。計4日間かな。
大きな目的としては、

  • 自分の目で現地に足を運んで肌で感じること
  • 何か出来る事があるなら、少しでもお手伝いすること
  • 観光すること(東北にお金を落とす)

3つ目は後から加わった感じ。ひたすらボランティアするのは自分にとって良くないので、ほどよく温泉に入ったり、ほどよく観光したり、ほどよく郷土料理をたべたりと。無理せずバランスを保ちながら旅できた同行者の方々に感謝。

◇陸前高田市までの道中

2日(月)の仕事を途中で切り上げ、終新幹線に4時間揺られ東北新幹線の水沢江刺駅まで向かう。奥州市にいた友達に迎えに来てもらい、友達の叔父さん家が今回の拠点となった。基本的なインフラは既に戻っており、近くのジャスコやコンビニも不足しているものはないように思う。最初は食料や水とか持って行った方がいいかなと心配していたが思った以上に内陸部は被害が少なく安心した。

着いた翌日から2日間、陸前高田市まで手伝いに向かうことにした。奥州からさらに車で2時間のところに港町陸前高田市は存在している。東京から計6時間は少し遠い。
陸前高田市までの道中、橋の通行止めや地割れなどで道が荒れている箇所があるものの、大きな損傷を街からは見受けられない。

ただ、内陸部からの道少なく山道が多い。かつ車線が少ない。(パトカーが法廷速度で走ったら一気に渋滞を招いたりすることも。)

◇ 着いて感じた事

言葉にならない。本当にフィクションにしか見えない。まるでCGの特撮現場。原爆の経験はないが、原爆が投下されたのかのよう。
陸前高田市8068世帯中3622世帯が全壊。7割〜8割の世帯が水没。25千人のうち1400人が死亡。現地に足を運ぶと数字では物語れない生々しさがある。これだけの地域が壊滅してよくこれだけの人たちが生きていたというポジティブな話も現地の人から聞いた。よほど津波に対する意識が高かったのだろう。

海辺の地域は街が壊滅状態で、廃墟と瓦礫の数々。瓦礫と言っても車、家の2階部分、家の一部になっていたであろう木材や鉄パイプ。2ヶ月である程度ではあるが分別されているがそれは海岸地域のみ。恐らく、捜索活動の際に整理したのだと思う。少し内部に入ると、手つかずの地域も多く原型を探す事が難しい。
また、街全体、腐乱臭が凄い。海臭さを通り越した腐乱臭。魚の死骸が庭など至る所にあるらしく、お手伝いをしているときも庭で臭いがきつい鮒の死骸を見つけた。ちょっと前は人の死体の腐乱臭もあったという話を聞いた。

◇してきたこと

陸前高田市社会福祉協議会が設置したVC(ボランティアセンター)でマッチングをしてもらう。ここは毎日、ボランティアを受け付けている。日帰りでも個人でも当日いきなり参加も出来る。色々なボランティアを受け付けているが、主な男性の仕事は瓦礫撤去。女性には避難所への物資の仕分けや調理等があるそうだ。僕たちが足を運んだGW、センターが把握している数で約350名程度だった。GWでようやく人が足りていると言える程度であり、通常はなかなか人が足りないような状況だった。

場所にもよるが、瓦礫撤去は半壊(津波約2mで家が原型をとどめた状態で残っている)の家で、のべ人数として20−30名必要な気がする。10人で1日働いたら、2−3日は必要だった。装備は、そこそこなヘルメット、マスク、グローブ、ゴーグル、つなぎ、ブーツをコメリで購入すれば、一輪車、スコップ、クワなど備品は提供してくれる。家々に手伝い経験が高いリーダーがいて、ブルーカラーの方々に学びながらホワイトカラー(=僕)は下で出来る事を精一杯頑張る。
2件の家に足を運ばせていただいたが、庭には数限りない物が転がっている。腐敗した魚、工場から流れてきたビニール袋、発砲スチロール、近くの養殖場の貝殻などなど。アルバム、写真、洋服、バックなど人のぬくもりを感じるものをみると心が痛む。撤去と言っても、仕分けをして燃えるゴミと燃えないゴミをある程度、分別する程度までしかできない。それ以上は重機が必要となるが、これだけ広い地域の重機による撤去には相当な時間を要するのだろう。1年で撤去が終わるのか正直分からない。

◇被災者との接し方

ボランティアセンターで2件紹介された家で被災者と話す。実際に、避難所まで足を運んでいないから多くの方々とは話していないが、何を聞いたら失礼なのか、何を話したら失礼なのか、本当に難しい。コトバの一言一句を丁寧に選びながら。口で会話をするのではなく、頭で会話する感覚。
親族や友人を亡くされている方々もいるだろうから。共感する事は出来ないし、同情する事も何か違う気がした。
自分たちの生活もままならない中でも、お茶や手作りヨモギパン、フルーツを出してくれる気遣いに本当に心を打たれる。
「電気が通っていないときはニワトリのような生活だったよ。日の出と共に目覚め、日の入りと共に寝る。そんな生活がしばらく続いて電気のありがたみに気づいたよ」「元とおりにするまで何年かかるか分からないけど、皆が来てくれたらすぐに戻りそうだよね」「よくこれだけ壊滅してこれだけ生き残ったよね」とどこかウチらを励ます様ポジティブに話している様にも聞こえた。恐らく、どこかで相手も気を使ってくれていたんだと思う。

まだまだ、遠慮してか気持ちの整理が出来なくてか必要があるのにボランティアを頼もうとしない家も多いと聞いている。ボランティアと接する事ができるような人は、少しでも前向き歩きはじめた人たちだったのかもしれない。

◇できること

短い期間かもしれないが、テレビではなく現地に足を運び一次情報を得、自分なりに昇華することが必要な気がしている。適切な表現かは分からないが、目に焼き付けておいた方が良い。
そして、ある程度情報を調べれば分かるがまだまだどんな人にでも手伝えることはあると思う。それは、動機は好奇心であれ自己満足であれ何でも良いと思う。砂漠に1滴の水滴をたらす様なものなのかもしれない。潤いは提供できていないのかもしれない。
高校生とおじさんの親子で手伝いに来ていた人もいた。女性もいた。外国人もいた。何かしら出来る事はある。
ボランティアという堅苦しい言葉ではなくて良いと思う。
もう少し柔らかい感覚を持って気軽に旅行気分で足を運べば良いと思う。
手伝って温泉はいって海や山の幸を頬張る。そんな適当な感覚で足を運べば良いと思う。
フィットネスクラブで汗を流すなら、被災地で運動がてら汗を流す感覚で良いと思う。

朝6時に起きて、健全に汗水たらし、感謝されたことに喜びを感じ、温泉に入って疲れをとり、東北料理で腹を見たし、友人のおじさんとひたすら日本酒を飲み語り。コンビニ、パソコン、タクシーが友達の都心ホワイトカラー生活に比べると何か満たされている気がした1日でした。

少しでも時間があれば旅行気分で足を運んでみると良いと思います。


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居場所

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つい先日、「インタビューの教室」を受けに清里の清泉寮まで2泊3日遊びに行ってきた。それまで連日、週末出勤だったので行けるかが不安だったが、なんとか参加することが出来た。

久々に心にまで染みわたるようなインプットを得ることができた。インタビューのスキルやノウハウではなく、もっと深いところの自分を燻ってくれるモノ。なんだろう、知識じゃなくて、感覚とかに近いのかな。3人称としての固体の情報ではなく、1人称としての流れるような感情・感覚。うまく言葉や文字には出来ない。

インタビューは「相手は今どこにいるんだろう」と相手の居場所を一緒に見つけてあげること。講義の中では「相手の景色を一緒に見る」ということだと教わった。そんな話を聞きながら「自分ノート」見ていたら、人に話を聴く事は、自分の居場所を確かめている行為かもと考えるようになった。友達とご飯を食べる行為は友達との関係性において自分の居場所を確認する行為。会社に行って仕事をするのは、会社の中での自分の居場所を確認する行為。他人との関係において自分の居場所を常に認識しながら人は生きている。他人との距離感や価値観、関わり方で自分とは何者なのかを図っている気がする。視点を変えると、自分が何者なのかを気づかせてくれるような友人・知人が多くいる人ほど自分の内側にある自分に気づく機会が多くなるのかもしれない。

改めて、自分で自分にインタビューをしてみると、まだまだ、自分の心に100%素直な人生を歩めていないことはそんなことする前から知っている。「正しい」ことではなく「本当」のことを追求し、自分にインタビューしたときに自分が納得できる自分になるよう努めていく。

ひとの話を聴き、訊く技術をめぐる三日間

2月の三連休に、定員8名の小さな「インタビューの教室」を開くことにしました。(開催動機はページ中程の「清里編にむけて」をご覧ください)

ライター養成講座の実習のような「取材依頼の方法」や「どう記事にまとめるか」といった内容は扱いません。プロのインタビュアー養成が目的ではないです。
ひとの話を「聴く」感覚やその諸相について、インタビューというかかわり方を通じて、学び、考え、楽しんで試すことが出来る場をつくろうと思います。

インタビューの仕事は、「相手を選び」「会って話をきき」「まとめる」3つのステップに分けることが出来ますが、その本体にあたる「聴く」ことや「訊く」ことがこのWSのメインです。

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到着前日から降り出した雪@清里駅

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清里駅から眺める富士山

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つららと快晴

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清泉寮 マグカップ

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迷路のホテル 清泉寮

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インタビューの教室

みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?
西村佳哲
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